僧侶の法話

言の葉カード

 3人の息子を育てている頃、忙しい日が続いて食事の用意ができない事がありました。それで、その日は買ってきたお弁当で夕食を済ませることにしたのですが、お弁当を並べて「さあ! いただきましょ」と言ったとたんに、息子がシクシク泣き出したのです。息子たちの好物の詰まった、私の手料理よりもよっぽどおいしそうなお弁当なのに、息子にとってはそんな事よりも、母親からの愛情を受け取る大切な機会がなくなった淋しさの方が強かったのかもしれません。何とも切ない出来事でした。
 祖母や母がしてくれたような丁寧な食事の仕度は、とても私にはできないけれども、「食」は身体だけでなく、心も育てることを子どもたちをとおして教えられたのでした。
 では「食」と「餌(えさ)」はどこが違うのでしょうか。「餌」を辞書で引くと“鳥・獣・虫などの生きものを育てたり、捕えたりするための食物”とありました。「餌」というひびきからは、何かしら与える側の利益や都合が見え隠れするように思います。与える側の損得を超えて、相手を慈(いつく)しむ思いや願いが感じられません。しかし、そう思った時に、私が作るものは「食」なのか「餌」なのか。私は食べているものを「食」にしているのか「餌」にしているのか考えさせられます。
 何年か前にこんな言葉に出あったことがあります。
  今日カニを食べた 
  カニの一生を食べたんだなぁ

 「おいしいか、おいしくないか」、「新鮮か新鮮でないか」。そんな事ばかりが気になって、食事を仏事からほど遠いものにしてしまっている私の姿を映し出してくれる言葉でした。
 野菜にせよ、魚にせよ、肉にせよ、願い、願われて生まれ育ってきたに違いない、そのいのちをいただき、その願いを身に受けて、今・ここ・この身を生きている。その事実に向き合ったとき、「食」に対して厳粛(げんしゅく)に、また謙虚にならざるを得ません。
 「食」を前にして、そっと手を合わせる、その習慣にまでなった仏さまの心を、私は子や孫に手渡しているのか、私の生きる姿勢が問われているのです。

三池 眞弓氏
真宗大谷派 明正寺(福岡県)

月刊『同朋』2017年10月号より
法話 2019 12