2020年長月(9月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 言葉の力は絶大です。言語が文化を形成し、言論が歴史を動かした事実もさることながら、私たちの日常においても、言葉の力はあらゆるところに見受けられます。誰かの言動に深く傷ついた経験のない人はいないでしょう。無作為に放たれた言葉が私に刺さり、生きる気力まで奪われてしまうこともあります。その一方で、確かな言葉に勇気を与えられることもあります。つまり、言葉には言葉以上のものが宿るのです。
 仏教は古来より、言葉の力に細心の注意を払ってきました。言葉が私にもたらす作用を注視し、「行動」や「思考」と並んで、「言葉」が自分を作り上げると考えてきました(身(しん)口(く)意(い)の三業)。なぜなら、この三者は相互に深く結びつき、私が考えること、話すこと、行動することが一体となって、「自分」という存在を練り上げるからです。また、発話行為というものは当人の内的な成熟度を如実に表しますが、言葉は私の内面から表出したものであるにもかかわらず、私にはその力を制御することができません。言葉は、発話者の予想を超えたはたらきをするのです。

 したがって、このことばは「言葉づかいに気をつけよう」という道徳の話に留まるものではありません。同じ経典に「ひとは生まれると口に斧(おの)が生える」とも説かれるように、悪意ある言葉は文字通り他人を傷つけます。そうした言葉は、発言した後に「しまった」と後悔をもたらし舌禍(ぜっか)を招くだけでなく、やがて内側から自己を侵食し(思考と行動に影響を及ぼし)、少しずつ自己を苦しめます。そして何より、悪意ある言葉は人に刺さったまま容易には抜けず(消えず)、人の尊厳を踏みにじり続けるのです。
 特定の人を攻撃することで耳目を引こうとする近年の言論活動を見る限り、この社会には暴言や罵詈雑言(ばりぞうごん)を求める気分があると言えます。また、言葉が次々と消費される流れに比例し、たったひとつの失言からその発言者の人格までを否定しようとする態度も見受けられます。相手の言葉尻をあげつらい、その言葉の背後にいる人間の姿を見ようとしない傾向のことです。何事につけ社会に向けて発言することが容易になると同時に、言葉が軽視され、言葉の重みが見失われつつある状況の只中に、私たちは立っています。
 こうした点から、自身が語ろうとするその言葉に、より一層の注意を払う必要があることは間違いありません。今一度、「私は私が語る言葉の力を完全には制御できない」という事実を思い起こす時が来たのではないでしょうか。

『スッタニパータ』(原始仏典)

大谷大学HP「きょうのことば」2019年2月より
教え 2020 09

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「平等」と言えば、現代では政治的な用語のように思いますが、もともとは仏教語です。意味も多岐に渡りますが、「あまねく、一様に」ということです。浄土真宗では、特に阿弥陀(あみだ)さんの慈悲を表す言葉です。
 阿弥陀さんの悲愛(ひあい)は、すべての苦悩するものを、あまねく救うと誓われています。もし一人でも救いから漏れるものがいたなら、私は仏には成らないと誓います。そうは言われても人間は、「どうせ私なんか、救いから漏れているに違いない」と考えてしまいがちです。私たちは疑い深くなってしまったのです。無条件に救われる世界など信じられないと。ところが、その「どうせ私なんか」と拗(す)ねるこころの持ち主をこそ目当てにされているのが阿弥陀さんの悲愛です。
 疑い深くなってしまった私のこころを優しく包み込み、とろかせてしまうものこそ、「平等なる阿弥陀さんの悲愛」だったのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2020 09

僧侶の法話

言の葉カード

 蓮如上人(れんにょ ※)は「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに」と書かれた。浮生とは水にふわふわと浮いたような生です。立つべき大地を見失った生き方です。皆さんがお参りされるお葬式は亡き人をご縁にして仏法(ぶっぽう)さまに出遇(あ)うということですが、「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに」という呼び掛けをいただいているんです、お骨から。「あんたもお骨になるよ。生きとるんか、動いとるんか、どっちや」という呼び掛けです。
 私は、妻は坊守(ぼうもり)として、私は住職として、それぞれが仏法を聞いてきたという思いに立っていましたけども、いかにその呼び掛けに出遇うことが至難であることかが、たった一言で知らされた。初めて思いどおりにならない我が身に出遇った言葉が、妻の病床での「侮(あなど)っとった」という一言でした。
 私たちは、看病すれば回復するようなつもりで付き合います。死の縁に臨(のぞ)んだ人とした目で見ないです。それでも、老いて病んで死ぬということは、決して役に立たずではなくて、我が身の事実です。その我が身の事実を引き受けているのが、仏さまです。業縁(ごうえん)、この身です。そういう教えを聞いて、目が覚めていく。
 曽我先生(※)がおっしゃった「自分を信ずるときに、人を信ずることができるのであります」という言葉がありますが、その人の一生涯に頭を下げるということは、つまりそのまま我が身に頭を下げることです。やがて頭が下がることです。人身受け難い、この身を受けました。かけがえのないこの身なのです。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶
曽我 量深(そがりょうじん/1875~1971)
…真宗大谷派の僧侶。当派の近代教学を象徴する人間の一人

藤井 慈等氏
真宗大谷派 慶法寺住職(三重県)

首都圏大谷派 開教者会
報恩講法話より
法話 2020 09

著名人の言葉

言の葉カード

 年齢を重ねた今だからこそ作れる落語がある—。
 芸人の世界というのは、怠けようと思えばいくらでも怠けられる世界なんですけれど、それではダメなんですね。落語家は、何か形のあるものを作るわけではなく、形のないものを演じて観ていただくわけです。努力したら努力しただけ結果がついてくるかというと、そうではないときもあるんですけど、常に努力しておくことはとても大切なんです。
 若い頃、横山やすしさんに「マイペースでやらなあかんで」と言われたことがあります。やすしさんは中学を出てすぐに漫才師になられましたので、僕と同じ学年なんですけど芸歴ではだいぶ先輩でした。彼は僕に「マイペースと言っても自分がやりやすいようにしていたらペースが落ちてくる。少し苦しくても速いペースをキープしていかなあかん。そういうペースを作れ」と言われたんです。それにはなるほどと思いましたね。ちょっと生き方を急ぎすぎはったんとちゃうかなと思いますけど、掛けてもらった言葉には励まされました。

桂 文枝氏
落語家

月刊 『同朋』2015年7月号
(東本願寺出版)より
著名人 2020 09