2019年葉月(8月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

人は、断ちがたい欲望に支配された世の中に生活している。そこでは生れるのも独り、死ぬのも独りである。どんな境遇に至ろうとも、それを引き受けて生きるのは他ならぬこの身、独りである。
 この洞察は、釈尊(しゃくそん/お釈迦さま)が人間の生の現実を教えるところに語られています。世俗社会の欲望にまみれている私たちは、群れ集まっても最終的には孤独だと言うのです。「他者を押しのけて貪(むさぼ)り、互いに争い傷つけ合い、孤立する不安におびえる自分たち人間のありさまをしっかりと見つめ、そのような生き方を哀しみ傷むことから歩みを始めよ」。釈尊はそう教えているのです。
 多くのいのちが「共に生きる」世界を実現するためには、飽くなき欲望を自覚させ、対立するものの間にも共存できる関係を築かせるような、大いなる智慧(ちえ ※)の働きが必要です。そのような智慧を分かち合っていく道の第一歩は、孤独な自己の在り方を深く哀しむことなのです。その傷みを感じさせ、「共に生きる」理想の実現に向かって人間を動かすものこそ、宗教がもたらす真実の智慧なのでしょう。

智慧
知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことも、見ることもできない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。

『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』

大谷大学HP「きょうのことば」2009年3月より
教え 2019 08

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 お盆は、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』というお経にでてくるお釈迦さまの高弟・目連尊者(もくれんそんじゃ)の物語に由来するものです。そのお経には目連尊者がお釈迦さまの教えにより、餓鬼道(がきどう ※)におちて苦しむ母を、百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき ※)をもって修行僧たちに供養し、その功徳(くどく)によって救ったと説かれます。
 この経説と「先祖の霊が帰る」という日本独自の民間信仰が結びつき現在のお盆のカタチが生まれたものと思われます。十三日には先祖の霊が家に帰り、十六日にはお墓に戻るという考え方です。その行き帰りの目印として提灯(ちょうちん)に火を灯し、送り火・迎え火が行われ、家庭には精霊棚(しょうりょうだな)を設け、先祖の位牌や仏具をおき、供養の品々を備えるようになりました。つまり、お盆を先祖供養の期間として捉えたのです。
 それに対して浄土真宗は、霊魂不説の教えであり、仏さまがお墓と家庭を往復するという考え方をしません。家庭ではお内仏(おないぶつ/お仏壇)に手を合わせ、お墓では墓石の正面に記した南無阿弥陀仏に手を合わせる。仏さまに手を合わせるという意味では、家庭でもお墓でも同じことなのです。
 ですから、お盆をお迎えするのは、亡き先祖の霊を救うという供養のためではありません。亡き人を偲(しの)び、わが身・わがいのちを振り返る大切な時といただくべきでしょう。そして仏さまの教えやいわれをとおして、自分に向けられた大切なご恩を感じ取ってほしいという、先祖の願いをいただくのです。

餓鬼道
常に飢渇(きかつ)に悩むものを仏教語で「餓鬼」と言う。
百味の飲食
百種というほどたくさんの食べ物や飲み物による供物。

東本願寺 真宗会館発行

『仏事ひとくちメモ(作法・行事編)』より
仏教語 2019 08

僧侶の法話

言の葉カード

 ある日、私の友達のおじいさんが亡くなりました。お散歩をしに出かけて倒れ、突然に亡くなってしまったのです。枕経のおつとめ(臨終のおつとめ)に伺うと、静かなお部屋に、友達とそのご家族がいて、亡くなられたおじいさんは真っ白なお布団をかけられて横になっていました。緊張しながらお経を読み始めると、家族みんなの小さな泣き声が部屋中に広がりました。
 おつとめが終わってからのことです。友達と一緒に、おじいさんの枕元へ行き、亡くなられた姿にお会いしました。眠っているような優しいお顔。私は頭にそっと触れて「お疲れ様でした。有難うございました」と語りかけました。するとそれまで後ろで座っていた友達は、目にたくさんの涙を浮かべて、恐る恐るおじいさんのほっぺたに触れました。そしてゆっくり頭をなで、こらえていた涙を流して大声で泣きながら、おじいさんのほっぺたを包み込むように何度も何度も触れたのです。
 亡くなられたおじいさんの、ひんやりして、柔らかくないほっぺた。さすっても起きてくれないし、返事もしてくれない。それでも、残された大切な家族の悲しみを、静かに、全部まるごと受け止めてくれているように感じました。
 どれくらい時間が過ぎたでしょうか。だいぶゆっくり呼吸が整ってきた友達は「おじいちゃんの頭なでたの初めてだった」と、ちょっとだけ笑顔を浮かべて話してくれました。
 私たちに命がけで「死」を教えてくれたおじいさん。私にもみんなにも「死」は必ずくる。それは今日か明日かはわからない。だからこそ、「今を大切に精一杯、精一杯生きようね」。そんな声なきメッセージを、おじいさんからいただいたような気がします。

白木澤 琴氏
真宗大谷派 玉蓮寺(宮城県)

真宗大谷派青少幼年センター
子ども会情報紙『ひとりから』第11号より
法話 2019 08

著名人の言葉

言の葉カード

 身内や知り合いなど、大切な人を亡くして今年が初盆の方もいらっしゃるかと思います。誰しも命を終える日が必ずやってくるということは頭ではわかっているはずなのに、自分のことや近しい人にその事実が迫ってくると、やはり目を背けたくなってしまいます。誰だって悲しいことには出会いたくないですから。
 誰かを亡くすという事実だけが私の身にふりかかった時、癒えることのない悲しみや喪失感を抱えながら生活を送っている方は少なくないはずです。「もっと何かしてあげられたのでは…」という後悔から、供養を重ねたり成仏するよう亡き人を案じたりせずにいられない方もいらっしゃるでしょう。
 大切な人の死の事実が、私に何を問いかけているのか。この言葉の持つ意味は、他人事であった死の事実を、自分は引き受けたくないという単なるエゴではないはずです。裏を返せば、今まで遠ざけてきたことが、実は私の身の事実でもあったということ。そのことを、尊い命をもって教えてくれた人は誰なのか…。
 命の歴史をさかのぼれば、ご先祖の命のバトンを受けて今を生きているのが「私」です。お盆は静かに手を合わせ、亡き人から案ぜられていたことに触れる大切な機会なのです。

蜀山人/大田南畝(しょくさんじん/おおたなんぽ)

狂歌師(日本)
著名人 2019 08